瀬戸龍介

EASTは最大手のキャピトル・レコード、そして、エージェントには、これ又、最大手のCMAが付いた。CMAにはあのカ-ペンターズをはじめ、キャロル・キング、トム・ジョーンズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、等が所属していた。ただ、最大の問題は、当時はまだ今のように日米間のビザ関係が緩和されていなかった時代だった。彼らは各TVやらコンサートの契約で再び渡米する際にハワイで足止めを食らった。適性ビザが無い為だった。キャピトル・レコードやCMAの力もアメリカ政府には及ばなかった。ハワイの空港に着いた彼らはファンに囲まれ、エルトン・ジョンと同じビルボード10位にランキングされていたにも拘わらず、全てのコンサートとTV出演の契約を破棄しなくてはならなくなった。 又もや、信じられないことが起こったのだ。EASTはその後、案外あっけなく解散になってしまった。これも、今思うと、これで良かったのかどうか、でも何処かに、やはり惜しかったという気も無いわけではない。そのまま行けば今頃はもしかして、と思う時もある。
瀬戸龍介の活動はそこから始めてソロ活動になって行く。1974年頃のことだ。彼は自分のアイデンティティーを確立しようと必死になっていたことも確かだ。日本にもっと目を向けだしたのもこの頃からだった。毎晩、LAのいろいろなライブ・スポットでソロ活動をしながら、曲作りに励んだ。その頃、EAST時代に使っていた日本楽器にも、もう一度目を向けはじめた。琵琶と尺八が一番目に入った。改めて、ものすごい楽器だということに気が付いた。日本が誇る、小澤征爾、武満徹らと世界的な琵琶の演奏家の故鶴田錦史に師事したのもこの頃だった。そして、作風はどんどん変わっていった。 尺八をフィーチャーした曲では゛問答゛、琵琶をフィーチャーした曲には゛スサノオノミコト゛が出来上がっていった。瀬戸龍介初のソロアルバム゛五六七(ミロク)゛はこうして出来上がっていった。その後、彼は東京都下の高尾山の山中にミロク・スタジオを作り、そこでの制作活動が始まった 琵琶に鶴田錦史、尺八に横山勝也、笛に赤尾三千子、太鼓と鼓に堅田弘輝を迎え、ミロク・オーケストラは尺八に宮崎青畝、琵琶に田中之雄、そして箏に鍔本和子といった日本で最高のメンバー、プラス昔からの友人でベースに白鳥澄夫、ギターに吉沢拓成、キーボードに渡辺圭輔といった最高のグループが出来上がっていった。華厳絵巻のアルバムは他に天使のような白鳥英美子他、船本英雄、石田和也、福沢もろ、細野晴臣、といった蒼々たるメンバーで出来上がったものだ。